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痛みと想像力

 先週誕生日を迎えた。還暦を過ぎること数年。歳を取ると、体のあちこちに不具合がでる。そのことは知識として知っていたが、実際に自分の身に起こってみると、なるほどこれはやっかいだ。私の場合、現在右脚が思わしくない。歩くのにも少し不自由がある。本人は「少し」と書いているが、見ている人によっては「痛々しい」と思っているかも知れない。
 脚が悪くなってみると、世の中に、同じように、少し脚を引きずっているという人が多いのに驚く。朝の地下鉄、繁華街などで、同障の方を見かけることは、思った以上に多い。自分がそうなるまで、気づきもしなかった、ということに驚く。
 歩いていると、階段は勿論、さほど大きくもない段差が気になる。地下鉄の駅のエレベータやエスカレータの位置に詳しくなった。手すりの有無は勿論、高さも気になる。雨の日に歩道橋の手すりが濡れていることに気付いた。考えてみれば当たり前だが、今まで、考えたこともなかった。冬の日に濡れた手すりは握りたくない。表面に酸化チタンの超親水性被膜を形成すれば、雨が雫にならないから、屋外用の手すりとして特許が取れるのではないか、などと考えたりする。
 なってみないと分らない、ということがあるのは確かだが、歳をとって体が不自由になったときのことを、あるいは現に体が不自由な人のことを、もう少し想像することができなかったのか、と自分に対して思う。若いとき読んだジャーナリスト・千葉敦子の著作を思い出す。おそらく「昨日と違う今日を生きる」(角川文庫)だったと思う。その中で、千葉敦子は、人の痛みを想像することができるのが人間なのだ、と書いていた。なってみなくても想像することはできる、人の痛みを想像力によって感じることができる、人間はそういう存在でなければならない、と。その言葉を思い出す。
 もちろん、日頃から、人の立場を理解するということはしているはずだ。私たち弁理士は、知的財産(以下、知財)の専門家として、特許や商標の手続や権利内容について、説明するときがある。説明する相手は、知財の専門家の場合もあれば、あまり詳しくない方という場合もある。こうしたとき、特に後者の場合、どのように説明すれば、正しく伝わるか、容易に理解してもらえるか、を考える。自分は専門家で相手はそうでない、という場合、相手の立場に立つには、それなりの想像力を働かせる必要がある。専門性を深めるということは、一方で、専門的な内容を、分りやすく人に伝えられる、ということなのだが、その際、説明する相手の知識や理解のあり方を想像し、言葉を選び、比喩を考えると言うことが必要になる。しかし、実際のところ、これは難しい。専門的な言葉や概念を扱えるというだけでは、相手に理解してもらえることにはならないのだ。
 そう思うと、千葉敦子が、あんなにも人の痛みの分る人で有り得たのは、自らが癌になり、ニューヨークで一人癌を生きるという選択をしたからではなかったか、と気付く。想像力で、他人の痛みや状況を理解しようと努力することはできる。一人で生きられないのであれば、他人の痛みや状況を理解することは、自分のためにも必要になる。あるいは大脳が大きくなり、自意識作り出すまでになった人の、それは当然の帰結のような気もする。
 しかし、それでも想像力を他者に及ぼすには、それなりの訓練が必要になる。そして、更に言えば、その先に、想像力を及ばせることの困難な領域というのがあるのではないか。そこに、「私」という、他に代替のきかない個人がいる、というふうに言えるかも知れない。小指の先が痛むだけで人は幸せになれない、と江戸時代の思想史家・富永仲基は言った。小指の痛みは、他の誰にも、本当のところは共有できない。指先の痛みを痛んでいるのは、紛れもない私なのだ。
 他方、人の周りには、時に、その人の痛みを理解し、共感する人がいる。共感してくれる人の存在によって、私たちは幾分か救われ、大いに勇気付けられ、時に痛みを忘れる。そのことを私たちは知っている。ならばやはり、なってみなくても、他人の痛みを想像することは、私たちに必要なことなのだ。代替が効かないはずの個人の経験が、誰かによって理解されるという不思議。改めて、人間というものの複雑さ、面白さを思う。若いときに読んだ著作が、思いがけない関係の中で思い出される。自らの体が不自由になっていくという経験の中で、新しいものが見えてくる。[ T.S ]

 

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投稿日:2017年12月12日