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弁理士と日本語

 私は今、弁理士だが、私の家族や親類には、いわゆる理数系の人は一人もいない。父は営業、兄は銀行員、いとこは乾物商だったり、甥は弁護士や保険会社に勤めていたり。みな、設計とか開発とか工場とか、そういう部門とは全く無縁だ。私の亡父は、印刷会社に勤めていたが、難しい言葉を知っていただけでなく、使い方も本当によく知っており、受注した本を趣味で校正している営業マンだった。私の兄は、銀行員だったけれど、中国語に堪能で、日本語教師の資格を早くに取り、定年後に中国で日本語講師をしたこともあった。元々、大の語学好き。名古屋弁は6段活用するんだとか、ときどき面白いネタを披露してくれる。また私の長女は、2年ほど前に同じく日本語教師の資格をとり、現在台湾で日本語を教えている。
 私も、本を読むのは大好きで、また、言語関係にも強い関心を持っている。本格的に本を読むようになったごく初期に、大野晋の「日本語の年輪」を読んだ衝撃は、今でも鮮やかだ。40年以上前に読んだ文庫本だが、今でも私の書棚に収まっている。また、日本語の用言を初めて分類した本居春庭(本居宣長の息子)の評伝「やちまた」(足立巻一、中公文庫)は、今でも人に勧める本の1つだ。大野晋、鈴木孝夫、三上章、田中克彦などの本は、沢山読んできたし、今でも、新刊がでればできるだけ読む。血縁的には、どうみたって文系一家だ。
 そんな文系一家、かつ言葉が好きな私が、どうして理数系を選ぶことになったかを考えてみると、小学校5、6年のときに同じクラスだったある友人の影響であったことがはっきりしている。その友人の父上は某電気メーカーでテレビを作っていたバリバリの電気技師だった。その息子も、小学校のときから、トランジスタや真空管を使ってラジオを作ったりしていた。すっかり影響をうけた私は、彼と一緒に電子回路遊びにはまり、昇圧回路を作って放電させパチンコ玉を溶接したり、高周波発振回路を作って自宅のテレビを写らなくしたりして遊んでいた。感電したことも一再ならず。そしてその流れのまま、大学も工学部を選び、卒業後、メーカーに勤め、電気・電子回路の設計の仕事に携わるようになった。あるとき、設計室の本棚にあった資格の本を読んでいて弁理士という技術系の大型資格があり、その仕事が、技術と法律と言語の上に成り立っていることを知った。特許事務所に転職し、明細書を書き始めて数ヶ月。こんなに面白い仕事がこの世にあったのか、技術と言葉の両者を必要とするこの仕事は自分にとって間違いなく天職だと感じた。爾来、30余年。今でもこの仕事が楽しくて、大好き。
 弁理士の仕事にとって、技術に関する理解は当然に必要になるが、権利書を作っているという観点からは、法律に対する深い理解と高い言語能力とが必要とされる。日本語で権利書を作るのだから、日本語の誤った運用をしたのでは話しにならない。私たちの仕事にとって、辞書は本当に必須の道具だ。自分が説明しようとしている技術的な特徴をぴったり表すことができる言語表現に辿り着いたときの悦びは、この仕事の醍醐味とも言える。しかし、そうした言語表現は独りよがりなものであってはならない。
 独りよがりというと、実は、あまり使われていない言葉を使いたいという気持ちを私は持っている。それは、言葉は使われなくなれば死んでしまうからだ。長い歴史を背負い、私たち日本人の生活を豊かなものにしてきた言葉が、使われなくなって死んでいくのを見るのは忍びないという気持ちがある。技術用語ではないけれど、例えば「黄昏(たそがれ)」という言葉がある。この言葉は夕方、薄暗くなってきて、人の顔を見分けにくくなる時間を表している。「たそ彼ぞ」(誰だ?彼は)という言葉から生まれたとされる。「黄昏」自体がそろそろ死語になりつつあるが、夜明けのまだ薄暗い時間を表す言葉の「かわたれ」は、もはや日常的に使われることはない。この言葉は、後朝(きぬぎぬ)の別れをして薄暗い中に出て来た男を見とがめて、「彼は誰ぞ」と問うたところから生まれたと言われている。こうした日本人の経験に根ざした言葉が死んでいくのを見るのは辛い。何とか使ってやれないか、せめて意見書の中であれば使っても良いかも知れない、などと思ったりする。さすがに「かわたれ」を仕事で使ったことはないけれど。
 こうした使われることの少なくなった言葉を使えない理由の1つは、独りよがりな言葉になりやすいからだ。明細書の作成や中間書類の作成は、独りよがりでないこと、誰もが同じようにその表現を解釈できる言葉で行なうことが大原則だ。独りよがりな表現でないことを担保するには、辞書による言語の定義がとても重要になる。と言うわけで、私は今でもほぼ毎日辞書を引く。辞書の形は紙から電子媒体に変わったけれど、辞書を引くという作業自体は、日課といって良い。
 弁理士として仕事をするなら、辞書を座右に置くことは当然のこと。豊かに言葉を使い、的確に技術を表現し、あるいは雄弁に審査官や裁判官を説得すること、それらは全て言語によって、国内では日本語によって行なわれている。日本語を磨いて欲しい、誰もが容易に理解でき、しかも曖昧でない表現を求めて、文書を彫琢して欲しい。そのために、辞書を引き、先人が使ってきた言葉を学んで欲しい。弁理士を仕事として選んだ人の、それは義務だと思う。辞書を引く度に発見がある。その発見を楽しんで欲しい。そして、私たちの営みの全てを支えてきた言葉が、1つでも失われないように、運用する努力をして欲しい。言葉は、一人二人が使うだけでは生きて行くことのできないものだから。[ T.S ]

 

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投稿日:2016年03月22日