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偶然と必然

 事務所創設前、私とパートナーとは、面識がなかった。私たちは、弁理士試験に合格した翌年、同期合格者の旅行にでかけたとき、たった一晩話し合っただけだ。パートナーは、それだけで、名古屋に引越して、事務所の立ち上げに加わることになった。あのとき、同期合格者の旅行に行かなければ、明成国際特許事務所という名前の事務所はおそらくなかった。彼が大阪在住であることは知っていたから、名古屋で一緒に事務所を開くことは無理だと思って、話をする時間を作らなかったら、やはり現在の明成国際特許事務所はなかった。それは偶然の出合いだったのだろうか。
 
 私の若い頃は、実存主義が時代の潮流だった。実存主義という哲学は、第2次世界大戦で「死」と背中合わせの日常を送った世代が直面した問い、人はなぜ生きなぜ死ぬかという問いに対して答えようとする思想上の運動として生まれ、戦後世代を覆った。この時代、多くの人がそうであったように、私も学生時代に実存主義に触れた。実存主義は、あらゆる選択が人間には実は可能であり、人は自分の選択に対して一切の言い訳ができない、と言う。サルトルは、そのことを、「人は自由の刑に処せられている」という言葉で表現した。朝起きて何を食べるか、学校に行くか行かないか、恋人と過ごすのかそれともデモに参加するのか、どんな職業を選ぶのか、それらは全て、本人が判断し、選んでいるのだ、いつまでも変わらずにいること、あるいは選択しないということさえ、本人の意思によるのだと。
 その考え方を裏返すと、今の自分の状況は、日々重ねてきた判断と選択の結果なのだということになる。一つ一つの判断や選択は小さいものかも知れない。しかしそれが積み重なるともはや簡単にはぬぐい去れない結果として、今の私がいる。社会人になって多くの人が感じる「あー、学生時代にもっと勉強しておけば良かった」という感想は、学生時代に、毎日少しずつ勉強をさぼるという選択をしてきたなれの果ての嘆息なのだ。
 小さな判断と選択を積み重ねて、人は少しずつ後戻りの難しい自分になっていく、と考えると、偶然というものも実は、こうした選択の一つの形だと気付く。あのとき偶然○○さんに出会って、本当に良かった、とか、あのとき偶然××に遭遇して、大変なことになってしまった、ということを私たちは時に口にするが、その偶然は、実際のところ、自分の判断や選択の結果だ。なぜ自分がその時その場に居合わせたか、と言えば、自分がその時にその場所に行くという判断をしたからだ。その判断に従って、電車に乗り、あるいは乗らず、判断に従って右に回り、あるいは直進し、そのとき、そこに至ったはずだ。
 判断や選択をしているときには、その後に遭遇する事態を知らないから、私たちは、その判断や選択の重大さを意識していない。自分のした選択や判断の小ささと結果の重大さとの隔たりがあまりに大きいとき、私たちはそれを偶然の○○と呼んでいる。
 しかし、どんな偶然であれ、その場に居合わせたという事実は、自分が招いたのだ。そのことからは逃れられない。ならば、私たちにできることは、偶然のように訪れる事態に自分の判断で居合わせた、という意味を汲み取ること、つまりその偶然が自分にとっての必然となるように生きることではないか。
 28年前、名古屋にいた私と大阪在住のパートナーとが、たった一晩の語らいだけで、事務所の立ち上げを共にしたことは、本当に偶然の結果のように見える。けれども、その偶然は、自分達がしてきた判断や選択の結果だし、その偶然にみえる出合いを懸命に生きたから、それが、あたかも必然であったかのように、今があるのではないか。もちろん将来、喧嘩別れするという選択をすることがないとは、それこそ誰にも言えないが、たった一晩の話し合いで、今日まで一緒にやってこられたことは、偶然を必然に変えようとする強い意思があったのだと思う。そしてそのことは全ての人にとって同じだ。今、何処かの知財部にいる全ての人、今、明成国際特許事務所にいる全ての人達は、毎日その組織に残るという選択をしているから、今もそこにいる。そうやって過ごしている日々が、全ての人にとって、自らの選択の結果であり、必然なのだと感じられることを願っている。[ T.S ]

 

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投稿日:2018年03月13日